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二 昔の墓と今の墓

 昔の墓を説くに先立ちまして、墓に関係のある事となる、日本における寺の起源に付いて少しばかりお話をいたしておきます。

寺院の起源

 今日では寺はあたかもお墓のために、建てられているように見えますが、昔はそうではなかったのです。その一家一族の現世の幸福と未来の安楽を、祈るために寺を建てて仏菩薩を祭ったのでありました。れがすなわち氏寺であります。氏神と言う事は今もなを申すのみならず、各市町村内にそれぞれ祭られてありまして、皆さまご承知の事ですが、この氏寺についてはあまり無関心のようでありますが、たとえば奈良の東大寺は朝廷の氏寺でありまして、同じく奈良の興福寺は藤原家の氏寺として、有名なのものでります。

浄土教と墓所

 浄土教が盛んになって来まして、追福のために墓所に寺を建てる事がお起こって来まして、あの藤原家においては京都市外の木幡の墓地に、浄妙寺を建てらたのがそれであります。

禅宗の 塔頭たっちゅう

 禅宗が伝わって以来、その寺の中に墓を置きまして、塔頭を設けるに至りました。塔頭とは墓番の意であります。徳川幕府にいたりまして宗門改め、すなわちキリシタン宗禁制を定めまして以来、貴賤みな檀那寺と言うものが一定するに至りまして、ついに寺は墓番を専業とするが如きが、一般の風となりました。幕府時代はその宗門改めの結果、嫁に行くにも婿に行くにも、また奉公するにも旅行するにも、檀那寺の受判のある書類がなくてはならなかったのであります。

石碑、石塔

 それから初めにも申しました通り、単に墓と言えば人の屍を埋葬したところの事で、その上の建築物の事ではないが、今一般に墓と言えば死人を埋葬したところも、またその上の建物すなわち墓標・石碑・石塔、ことごとく墓と申して通りますが、私がこれよりお話も申す墓と言う言葉は極めて狭義の方で、すなわち石碑・石塔に限ったものとご承知を願っておきます。
 我国において一般国民が、その墓の外部的設備として石碑・石塔を建てて、これに法号または戒名を付するに至ったのは、徳川幕府来すなわち檀那寺関係の起った以後の事に属し、古くても三百年に達するものはまれにして、多くは貞享・元禄以後の二百四五十年に達するものが古い方に属し、それ以前の正保・慶安・承應・明暦・万治・寛文・延宝などの年号あるものは、絶無ではないがほとんど希少の方であります。

行基菩薩の墓

 さらに昔に遡ると少し文献を調べれば、大和国生駒郡生駒村大字有里の行基菩薩の墓に、多宝塔を建てられた事の記録を見るが、それは今より千百八十二年(昭和五年当時)の昔、平城右京の菅原寺に寂(死去)せられた、同菩薩の墓誌銘によりて知る事が出来たのです。

日本最古の墓

 さらに今日、形の存在するもので最も古いものは、大和国高市郡高市村大字稲淵の龍福寺にある、石造の 層塔そうとう 一基である。これはその初層の周囲に昔阿育王…の銘があって、表面腐食はなはだしく到底全文を知る事が出来ないが、末に天平寶字三年および従二位などの文字があって、これを金石文考證や日本図経などに従うと、従二位の下に竹野王とあったらしい。それならばこれは竹野王の墓標として建てられたものであろう。実に我が国における銘のある石塔中、最古のものとすべきであります。天平寶字三年は今を去る千百七十二年前(昭和五年当時)の昔であります。

石造の 卒塔婆そとうば 、五輪塔、 宝篋印塔ほうきょういんとう

 それから平安朝に移っては、多宝塔や 層塔そうとう の外に石造の 卒塔婆そとうば がおこりました。これは初めには供養のために建てたものだが、後には石塔と同じく墓のしるしとなりました。それに次いで草堂または小堂を建てるの風がおこりまして、これが後世に霊廟の起源をなしたものであります。またこの平安時代には、あの石造の五輪塔や 宝篋印塔ほうきょういんとう などがおこりまして、あまねく世に行われるにいたりました。

堂塔の墓所

 以上はおおむね皇室において行われた所の、ご陵墓におけるありさまでありますが、堂塔をもって墓所とするの傾向は、やがて貴族の間にも採用されるに至りました。そして鎌倉時代に至ると、武家の間にも墳墓堂を見るに至ったのであります。彼の奥州平泉における中尊寺の金色堂下には藤原清衡・基衡・秀衡三代の遺骸を葬られた事は、世に有名な事であります。

板碑

 それから、この鎌倉時代から板碑と称し、緑青岩すなわち青石または秩父石とも言う、薄くて硬い自然石の平石をもって造られたものが、行はれるに至った。これは本来 卒塔婆そとうば と同意義のもので、もっぱら供養のために用いられたものであります。今時好事家や考古学者の間に、非常に珍重されるるものでありますが、これは足利時代に入って、最ぎも全盛を極めるに至ったものであります。その頃の板碑には、

逆修の意義

 往々逆修の文字あるのを見ます。生前に碑を建てて未来の冥福を修する事を逆修と言います。すなわち応永・応仁の戦乱の時など、出陣に際しこれを建てたが、終に戦死して、これがその墓碑となっつたものも少なくないのであります。
 供養のために、先人が建てられたものを利用して、後人がその背面に法号または戒名などを刻入し、これを墓碑とした例もまた少なくないのであります。
 そのように、我が国の昔の石碑・石塔の種類は多様にして、多宝塔・ 層塔そうとう ・五輪塔・石造 卒塔婆そとうば ・板碑そのほか、あるいは五重または七重の 層塔そうとう 、あるいは十三 層塔そうとう 、または 宝篋印塔ほうきょういんとう などの様に、色々のものがありますが、要するに徳川時代に至るまでは、以上の様な種類のもので、その大体が 皇室・貴族・武家その他には、名ある法師とか、または門閥のものに限られて 建てられたものであります。

一般民衆墓の起源

 徳川時代となっつて、一般国民が普通に墓碑を建てるようになった、この形のものを上げますと以上古来各種のものを、使用されたものも少なくないが、この時代の古いところでは石造の祠形・仏像、例えば阿弥陀如来とか観音とか地蔵とかの像。それから 卒塔婆そとうば 形の石碑、屋形すなわち石塔の頭に佛堂の屋根御拝の形ちを頂いたもの、それにまた根府川石や普通の自然石などを用いたもの、その他今日一般に用いられる切石を以て造られたる各種のものでありますが、この約三百年間のものを、形ちによって時代を表すと、おおむね五六期に分けられるのであります。


昭和五年発行 松崎整道居士講演「お墓と家運」 より

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 墓相Wiki 最終更新時間:2011年08月09日 16時06分22秒