:問:法名について吉凶がありますか。 :答:因縁があらわれます。 *了の字二字あれぱ次の代は養子。 *了の字三字あれば絶家します。 *法名の上に大の字あれぱ、その人生存中は、ケチで金を子孫に伝えた人が多いが、その子は財産を多少にかかわらず減らします。 *嶽の字を使用してあると三代前後、すなわち各代の内、その人前後、四代間内に一番家運の盛であった事を表します。 *岳の字二字があると二代目の人から二代目に財産が出来ません。 *何流童女と流何童女と流の字あるは次に近く生後一年以内の水子または男女子の死亡あることを表します。 *一二三四五六七八九十などの数字を使用してあると、法名の人かまたは次の人が五十才までに死なれる人が多い。 *刃の字あれば変死、遭難を表しますが、子孫には、吉凶に関係ありません。 *何何院は先祀になければ無理にお寺さんに付けて戴く必要はありません。 *法名中下部に一番良いのは仏教で真宗のある一派以外は孩子、孩女、童子、童女、信士、信女ならびに禅定門、禅定尼が吉です。 *院号や居士、大姉は生存中使用するは別としで、死後付けて吉とまた悪い因縁を生じます場合もあります。その関係は本日の短時間に申し上げる事は困難で、また次回に申し上げます。 :問:法名の下に付ける字はどの字がよろしいか。 :答:法名の下の字の付け方に付き申上ますと仏教の真宗のある一派以外は左の付け方が正しいです。 **水子から笑う頃玄で      孫子、孩女 **笑う頃から四才頃までの女子     嬰女 **笑う頃から十四才頃まで    童子、童女 **末婚者または既婚者、世帯主  信士、信女 **仏門に入りし人      禅定門、禅定尼 **仏門に入らずとも悟道する方は 居士、大姉 **特殊な入に          大徳、大尼  などが適当です。 *真宗の一部で釋何何と法名を付けらるる宗派では、女なれぱ釋尼何何どして尼の字を入れる方がよいのです。 *禅宗の一部で禅童子、禅童女、禅信士、禅信女などを付けられるのは結構でず。 *戦死者に院号をお付けになる墓が多いが、仏檀では院号を付けても、石塔にはなるべくつけない方が吉です。 *壽の字はその人一人は苦労したことを表します。 *山の字は長子が幼死するか、または養子を表す場合が六割ほどあります。 *梅の字は四十五才までに死亡せる方が多い。 *實の字を付けますと本入が若死かまたは後継者が若死する事を表します。 *本の字は五十才以下の死か、子が短命を表します。 *雲の字は短命、次の代は困難を表わします。 *春の字は本人またはつれあいが若死します。 *比古、比賣は本名と同じ解釈を致します。 *大人、も本名の墓として解釈致します。 *法名中に本名が二字以上入れた時、二代か三代目に養子となります。 *鶴の字がありますと、次ぎの代は困難な世帯を持たねばなりません。  以上は世帯主夫婦を基準として申しましたが、法名はまだまだ深いものです。私は法名のみ持参さられて、それで系図すなわち順番を作る事を頼まれます。作成後に寺などから関係書類が出て私の作成したのと大差ないので驚く人が多くあります。 :問:先ほど俗名の墓はその血統者が無くなると仰せられましたが、日本の皇室は本名て祭っておられるのではありませんか。 :答:陛下が崩去せられますと諱名を申し上げます。  諱名は仏教で言う法名と相似ております。ご在世中は本名を、崩御後は諱名にて申上げるのです。  宗教の一部では本名に比古、比賣とか命とか付ける事を教えている教団があります。養子となり、絶家となる家庭運です。また病人、身体障害がある。 :問:宮様には法名はありませんね。 :答:そうですただ今では法名は付けられません。  明治初期以前の宮様では何々院殿公と申上げて本名は刻んでありません。明治大正昭和へかけて御本名のお墓が出来ているのを拝するたびに私は心暗くなりました。  明治以前の殿上人家は、家庭の中では神道として祭り、生前の雅号を付けて何々院殿と霊璽に書き、お墓では仏式にして宝篋塔、五輪塔または石塔を建てて供養しております。今の無理に理屈を付けたお墓の作り方を考えますと、故人はよく子孫の事を考えて建立なされたと思います。  これは一つの例ですが、昔から位人臣をきはめられた家柄の近衛家は、京都大徳寺内で代々先祖より同じ形の宝篋塔が建ててあります。文麿公は父の墓を先祖の墓地で同じ形に建てる事を好まず、古来日本は神国なる理由を付けて、東京都ウグヒス谷の近くの寺内に西の低い坂の上で東面に建て樹木で影をし、石塔ば巾一寸五分ほどで高さ一丈ほどの石に大勳位従一位公爵近衛篤麿之墓と書いてあります。神道式の祭り方です。私はこの墓を見て、文麿公が日本の神道式祭りする時は、大変な事が起ると考えまして近衛家に松崎先生の「家運とお墓」の本を送った事があります。同家からは返事はありません。終戦後文麿公は自殺せられました。ただ今から一二年前先祖代々の墓地の続きに新しい宝篋塔が二基建てられました。れは篤麿公と文麿公との墓で先祖と同じ形の同じ大きさの仏式の墓てす。私はその建った新しい二基の宝篋塔を見て知らず知らずに涙を流したのであります。そうして文麿公が死亡せあれて後、先祖の祭り方が古に帰った事を見まして近衛家に心から祝福を申上げる次第です。 昭和二十三年発行 竹谷聰進著「正しい建墓と祭祀」より