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お墓の話5

 お墓の話 5



「無縁塔」

 かくのごとき色々の実例から見ましても墓は石ではない。皆さんの祖先であり、親であり人であり仏であると言う事が如実に現れている訳です。皆さん、墓を粗末にしたら親を粗末にする事になります。良く世間のお寺では無縁の石碑を寺の敷石にしたり、踏段にしたり、塀に塗り込んだりするのを見受けますが、これは大変な間違いです。その石碑の主はかっては地方のためになり、寺のためになった人です。その人が亡くなりましてその家が衰えたりしても、その墓だけはお掃除してお祀りするのが寺の義務であります。寺ではそんな事をする金が無いと申しますが、それをお祀りする寺は栄え、粗末にする寺は不幸が続きます。墓は石ではなく人であります。
 限りある墓地に段々墓が増えて来ますと、これを整理しなけれぱならぬ。その整理の一法として「先祖代々之墓」とか「何家之墓」と言う様な便利な墓が流行して来たのでありますが、これらは決してまねをしてはいけません。沢山の古い墓を持った人は、法をもって整理する事が出来ますので何も気にする事はありません。これに付いて詳しく申しましょう。
 墓が一杯になったら墓を整理するか、第二の墓所を取るのです。すなわち整理がうまく出来ない時に第二の墓所を取るのです。何の障りもなく、また先祖も喜ばれる様に整理するには大きな功徳を積んで、その功徳をもって墓を整理しなければならぬ。仏法には色々功徳の道が沢山ある。沢山ある中でも、墓の整埋に付いては墓の功徳をもってかかるのが一番ふさわしい。それはどう言う事かと言うと、例えばお寺に無縁になっている石塔が大抵どこにもあるものである。その無縁になっている墓をお祀りする。すなわち祭壇を築いてその所へ移してお祀りする、その発願をするのである。この功徳によって動かせぱ銘々の墓を動かす事が出来る。この方法を採る以外には先祖が因縁によって出来た墓を子孫が動かす権利がないのである。もし祖父、親が生きておったとしたらどうか、狭くなった、娑婆塞ぎだ、どこかへ行ってしまえと言う事は出来ない、そこで無縁になった石塔をお祀りする。それを発願し、それを実行した功徳によって銘々の古い、石碑を無縁墓地に持って行きます。
 無縁塔を積む時注意する事は、その沢山の石碑、竿石を決してセメント付けにしてはいけない。ただ檀の上に据えるばかりで良い。大風や地震の時に倒れる恐れがあると言ってセメント付けにしたのを見受けますが、これは甚だよろしくない。ただしその石碑を据える檀はセメントを用いるも良く墓の台石を利用しても差し支えはありません。竣工しましたならばお寺さんに頼んで開眼供養を行い、その後年に一回とか二回とかお祀りをしなければならぬ。
 今年の四月土佐の○○町に参りました。この町は干戸程の大きな町ですが、海岸にあった多数の無縁の碑を邪魔になるからと言って山手の方に移転しました、その時乱暴にも石碑を組み合わせて菱形とか亀甲形とかの模様を表すように並べ、大き過ぎるものは削り、小さいものはセメントにて補い、山壁に積み重ねました。まったく仏を祀るのではなく物好きに組み合わせたにすぎません。こんな事をしてはきっと何か騒動が起こるぞと申しますと、その時既に起こっておった。すなわち昨隼の衆譲院議員の総選挙に不正な事をしたとかで町中の人が皆引っ張られて行って大騒動を来したと言う事でした。
 その町から四里程離れた所に○と言う町があります。その所では完全な無縁塔が出来まして大変都合良くなっているとの事です。一軒の床屋がこの美挙に反対して少しも手伝いをしなかったそうでしたが、その後間もなく床屋の息子が停車場の全庫から金を盗んで警察に引っ張られ、その床屋は町にいられなくなり夜逃げしたとの事です。
 さて自分の家の墓が大変沢山あり、どの墓を残してどの墓を移転して良いかと言う事が問題になる、一体自分の家の墓が沢山あるとしても、これに香華を手向けてそれが届く仏と届かぬ仏とがある。百年も二百年も前の仏には届くものではない。届く仏はそんなに遠くないと言う事を申し上げる。呼ぺば返事をする仏がある。それを厚く祀る事である。呼べば返事をする仏と言うものは誰までかと言うとまず祖父母までで、年数から言えぱ五十年忌の済まない人である。これは呼べば返事をしてくれる仏であり。相続のとして残さなければならぬが、それ以上の墓は片づけられる。しかし片付けた跡に身代わりになる、供養になる塔を建てなければならぬ。ただ移し放しではいけない。すなわち五輪塔とか宝篋印塔とかを墓地の最上位に建てるのてある。
 私は可々私自ら発願して無縁の石碑を集めて祀っており、毎年三十乃至四十を下らない。その中沢山集めたものは四干本、五千本、少なく共三百、五百のお墓を集めて供養しております。無縁のお墓の整理されました檀家一同あるいは村一同には、不思議に生活難や失業難を訴える者がありません、お墓を整理せられる前までは失業者も多く、生活難を訴える者が多かったが、今は家庭の不和を叫ぶ者が無くなって来る。
 昨年二月泉州堺市へ参りましてお話致しました。浄土宗の某寺でしたが、お寺の手入れが行き届かず大分荒廃しておりました。堺と言う所は昔大閣さん時代には大変盛んな所であって、外国との交通貿易港となり、物産も酒とか河内木綿段通などがありました。明治になってからは産業は大阪に奪われ、港は神戸、大阪に移ってだいぶ衰微して参った様で、金回りも良くないと見えて寺の周囲の土塀などが傷んで、そこから顔を囲しているのを何かと恩って見ると、石塔でありました。その外に何百と言う石塔を穴に積み込んで塵介(ちりあくた)と共に打ち捨てられておりました。これを見ました私は大変驚きまして何とかしなければならぬと申しますと、「何分金仕事だから今日の堺では出来ない」と言う。ばかな事を言いなさんな、何でもないではないか。石と思うからそんな事になるのだが、これらの石塔の主は、今では不幸にして家が絶えて無縁になったのだが、昔はやはり寺のために感くした人、国のためにも、土地のためにも動いた人であった.。塀をこしらえるために塗り込められてたまったものでない。
 今日でも至る所にこんな事実はあるが、お寺さんが感知しないはずは無いと思うが、よく柱の下になった下水の土止めになったりするものがある。明治になってから古い石塔を穴に埋めたりまたは先祖代々の一つの墓にしてしまったりして、官民共に墓と言う事を忘れ、ただ墓標位に考えて粗末にし慣れた結果、日本に生まれて日本の国を忘れ、家に生まれ家の本を忘れた人間が沢山出て来た、もし生きている人間がこの寺に来て倒れていたとすれば、あなたは大騒ぎをするだろう。ここに人倒れがある、まだ息がある、医者を呼んで来るとか手当てをするとか決して放って置かないだろう、その時に医者を呼べば金が掛かる、他所へ運ぷには車賃がいる、と言う様な事を考える者がない。これらの沢山の無縁の碑を石と思えばこそこんなにして置かれるのだが、石でなく人であり仏であるのだから放って置ける訳のものではない。私がこの寺に来たのも緑があったのだから、私がこの寺の無縁さんを仕末する方法を執ると言いますと、それ出来れば結構ですと言われた。そこで私は大阪の徳風会に相談した。この徳風会と言うのは、先年来私が度々大阪へ参りましてお話をしておりました事が基となり、功徳積みのために出来た会であります。京都には清道会が出来ております。春秋二回のお地蔵流しや毎月一回の有縁無縁のお墓掃除をして常に功徳を積まれて来ました。ただ今では千五百の会員があります。この会にはかって無縁塔を建立する事にして、会員や有志の人々の寄付を仰ぎ、金が出来たので無縁さんを集めました。その数は千六百基、垣根だか林木だか分からない様な木を皆切って綺麗にし、塀を新しくこしらえ直してまったく見違える様な立派な墓地となりました。その結果はどうでありましょう。金がないから出来ないと言うので始めたのですが、何十間の耕土塀まで出来てなおかつ二千六百円金が余った。出来ないと言うのはやらないので、やって見れぱ必ず何とかなるものである。それからと言うものは失業を訴える者、生活難を苦にするものが一軒も無くなって来ました。こんな事実が現れたものですから、その町の寺も相次いでお墓の整理をやり出し、ちょうと今年の八月までに十八力寺整理出来ました。
 最近も東京青山の高徳寺と言う浄土宗のお寺に無縁の墓が沢山あり、やはり埋めたものもあるので、ぜひお配りをしなければならぬと言うので、檀家総代の森某が私の話を聞いて整理をしました。初めはお寺さんがうるさがっておりましたが、この人が市会議員などもしておった熱心な世話好きな人でありましたから、やる事になっていよいよ掛かったら石塔の数で八百基ありました。森と言う人が金が出来なければ自分一人でもやるつもりでしたのに、やり始めますとお寺に続々寄付が集まって来ました。一番最初にちっとも知らない人が来て「私はこれまで墓地を持っていない。やがては墓地がいるが大小は問わない、どうか隅の方でも良いから欲しい。無縁塔が出来るならこれを差し上げる」と言って干円寄付せられたのが始まりで、工事が終わるまでにそんな意味で金を納めた人が五、六人ありました。総額六、七千円も集まったので立派な無縁塔が出来てお祀りを致しました。ちょうど隣に麻布三連隊がありまして、寺の地面と連隊との間に道路が出来ました。そのために寺の地続きに六間幅の四、五十間の半端の土地が無償で寺にもらえる事になった。初め寺でも檀家でもうるさいと思われた事が訳なく出来上がり、墓の整理された所に不思議に余徳がわいて来るのです。私は金の寄った事を申すのではなくて、墓は石でない事を申すのです。無縁になったものは、あるいは生を抜いた物だとお寺さんで言われますが、一旦建てられた石碑は石でなく霊魂である。

「霊魂」

 もし生を抜いたとしたらその霊魂はどこへ行きますか。生を抜くと言う事は法にはあることはありますが、お気の毒だが今日本当に魂を入れたり、生を抜き得るカのある人がとれだけありますか。恐らく抜いたと言うても抜けていないのが沢山ありましょう。
 昔から老いて養う子なく、幼にして養う親なく、壮年で身寄り頼りの無い独り者を鰥寡孤独(かんかこどく)と申して、世の中の最不幸なるものとしている。けれどもこれらに対して十分ではないけれども、年寄りのためには養老院の設けがあり、狐児のためには孤児院の設備も出来ており壮年の者に対してはそれぞれ社会事業や職業紹介で世話する道がある。けれども死して仏となって子孫が絶え、無縁となって石塔まで粗末にされる様になっては不幸の極みである。そして生を抜かれたとしてもその霊魂はどこへ行き、誰がこれを供養してくれるか、祀る人もなくてこの字宙にさ迷うた霊はどう言う働きをするか。我々の子孫にしても不良者や道楽者が出来ると、その親達は世間に面口を失う次第ですが、それらの者でも世間に出て良い人に出会えぱ、たまには真人間になり立派な人になるものもありますが、多くはそうあつらえ通りには良く行かないで不逞(ふてい)の徒となり、不良の人となり、行く先は監獄と言う事になる。これと同様に霊魂のルンペンはやはり世の中に放浪して徳の欠けた人、徳を失うた人などに憑依して益々不徳をほしいままにする。たくさん金を持っていても情を知らぬ無慈悲な人につきまとって益々悪行を甚だしくさせて、遂にはその家をつぶすと言う事になる。これらの霊は誰かお祀りして上げなければ納まらない。
 世間の信心家、慈善家、学者や僧侶などが、祖先崇拝を唱道しているが、この人達に向かって先祖とは一体どの先祖を指すのか、親も先祖であり、祖父もまた先祖である。十代前二十代前であるかと問うて見ても、的確にこの人が先祖だと明確に返事できない。私は、もし両親が壮健でいたならば、この両親に苦労を掛けない事が先祖崇拝の骨子である言う事を叫びたい。またそう信じている。これから出発するとしっかりした先祖がつかめるのである。もし両親が没していたならばその両親と祖父母のこの四人の祥月命日と戒名を知っていて朝夕これに礼拝を怠らぬ様にするのである。これすなわち先祖崇拝である。
 私はどこの講演でも申す事でありますが、皆さんの中に父母・祖父母のこの四人の祥月命日と戒名を即座にお答えになる人が何人ありますか、恐らく十人に一人もない位でしょう。それは家へ帰って過去帳を見れば分かると言う方もあるだろうが、過去帳を見たり、お寺さんに行って聞いてみなけれぱ分からぬと言う様な事であったとすれば、それは世間に向かって祖先崇拝を唱道する資格がない。いかに信心家でもまた慈善家でもまた篤行家でもこれを欠いたら零であります。自分の身体をもらった親、その命日戒名をお忘れになっている様では失敗続きです。それで親・祖父・曾祖父と七代でも二十代でも推して行って捕んだ所が先祖であって、それらの人々をお祀りしなけれぱならぬ。

「年忌」

 墓を整理するにも両親と祖父母の墓だけは残して置きます。もしまだ墓が出来ていなけれぱ早速に建てなけれぱならぬ。墓を建てる付いて世間には色々の迷信があって、早く建てない方が良いとか言う者もあるが、親のために石塔を供養すると言う事はこの上もない善事、吉事である、それをやっで障りのある訳がない。年忌でなければならぬなどと言いますが、今日年忌と言うのは別に大なる意味はありません。私が前申し四人だけは朝タその戒名を呼ぴあいさつしなけれはならぬ。そうするとその外に年忌と言うものは必要は無いのです。一般に行われている年忌は、仏法とか何とかの定めでぜひと言うことから生まれたことでない。あれを設けたと言うのは、そう常に仏事法要をすることも出来ない事情もあり、その息子、娘などが他に行ったものもありましょう。それらを集めて三年に一度、七年に一度、十三年に一度お互いに呼び会うて霊を慰める。過去の仏と現在の続き合いの上で、親戚の間に親しみを厚うすることから設けられたことであって、借金してまでも何でもかんでも年忌を営まなけれぱならぬと言うものではない。することは結構ですが、捕らわれてただ七年だから借金しても年忌を営まなけれぱ人に外聞が悪いと言うならば、それは大変間違った話です。この四人でもよく常に朝夕にその戒名を呼び挨拶する。それから次にお参りも結構です。またそれぞれの供養も行われるのであります。
 まだお話をすればいくらでもありますが、余り長くなりますから、二、三の実例をあげて終わりと致しますが、要するに墓は石や物でなく、人であり仏である事をくれぐれも御承知置き願いたい。

「例」

 若州小浜の城下に○○寺と言ううのがあります。その墓地はどこにも良く樹木が繁茂して陰気で暗いのに驚きました。その所の公会堂で講演をして、○○寺に木が多くて暗い事、墓に木があると病人が絶えない事を申しておきました所、ニカ月後その寺へ参って見ますと全く木が無くなっておりました。私がただ一回のお話したばかりで町の人々が競争の様にして樹木を切ってしまったと言う事でした。また無縁の石碑をお祀りする事を申しておきました所、次々と約十ヵ寺程無縁塔が出来ました。ただ塔を造るばかりではいけない。お祀りしなければならぬ。お祀りしないのならば建てないのと同じ事である。小浜の町でこんな実話があります。
浄土宗の○○寺と言う寺でも無縁塔を建てる事になって、多くの人が手伝い金も沢山集まりました。しかしこの寺の和尚は無縁塔のありがたい事を心から会得して建てたのではなく、ただ金を集める事を目的としていたのだから、最初から規模を小さくしてなるべく金の掛かからぬよう、そして集まった金が残るようにしました。それがためせっかく無縁塔が出来ても十四、五基しか石碑が並ばない事になりました。その所で和尚は出入りの石屋に命じてその余った石碑を土中に隠匿せしめました。石屋はかねて石碑を埋没する事は悪い事だと聞いていたものでしたから和尚に注意しましたが、六年以上たった石碑は性根(しょうね)が抜けているから構わぬと言い、嫌がる石屋に無理に埋没せしめました。その晩から石屋は毎晩無縁仏にいじめられて一睡もする事が出来ず、一週間も続きましたので石屋はこれでは自分の生命が無くなるからどうかしなけれぱならぬと考えました。しかし今更和尚に相談しても何の効果もないのみならずかえって笑われるだけの事と思い、遂に意を決して夜中ひそかに土を掘り起こして埋めた石碑を取り出しにかかり二つだけ出した時、和尚がこれを知ってその所へ来て何をするかと叱りつけました。石屋も今は隠す事も出来ず、毎晩無縁仏に苫しめられ日々衰弱する事を話し、埋没した石碑を堀り出してお祀りしたいと嘆願しました。しかし和尚はもっての外なりと憤り元のごとく埋めておけと命じましたが、石屋は哀訴(あいそ)してせめて掘り出した二つの石碑だけなりと、お祀りさせてもらいたいと申しましたので、和尚もそれだけは許容してやりました。石屋はその二つの無縁仏を綺麗に洗い土を落としてお祀りをしました。その晩から石屋はもはや無縁仏にいじめられる事なく安眠する事が出来ました。一万和尚の方はその日から右の手が曲がり伸びなくなり、右の口角が上の方へ釣り上がって見苦しい顔になりました。恐らく無縁仏を掘り出してお祀りをしない限り、この病気は治らない事と思います。

「自然石」

 自然石の石碑を建てたために、千年も繁昌した家が急に衰微したお話があります。九州の博多を距てる約四里の田舎に干年前から代々続いて繁昌している○○家があります。この○○家について面自い話がある。比叡山延暦寺の開祖伝教大師が支那へ留学せられその帰航の途博多へ寄港せられました。その時筑紫の国に一つの寺院を建立せんとの発願で、ある夜独鈷(どっこ)の落ちた所が寺院建立の地であるとして、翌日御上陸になり独鈷の行方を探されまして山中にて猟師の四胆郎と言う者にお会いになり、お前はこの辺の者かと御問いになりました。私はこのふもとの村の源四郎と申す者で、昨日猟に出で山中に深入りしたため咋夜は山中の炭小屋にて夜を明かし、ただ今帰宅の途中でありますと答えました。それから咋夜何か変わったものを見なかったかと尋ねられましたので、火の玉のごとき光った物が空中から落ちたのを見受けましたと答えました。その落ちた場所へ案内してくれとの大師の御頼みで源四郎はおおよそこの辺と思う所へ御案内致しましたところ、その所に昨夜投げられました独鈷が落ちていたのを発見せられ、その場所に一宇を建立せられ独鈷寺と称して今日でもその寺は残っております。その夜は大師は源四郎宅へ一泊せられ、源四郎に対し何か不自由の物があらば叶えてやるから申し出よと仰せられましたので、源四郎はこの村には水が乏しくて困りますと答えましたので大師は庭前の地を卜(ぼく)せられこの所を掘れよ、水はその下よりわき出づるとの事で、早速その所を掘らせますと玉のごとき清水がすいすいとしてわき出して来ました。その水は今日に至るまでいかなる干ばつの時でも決して止まった事がなく「岩丼の水」と名付けられ史跡名勝地となって記念碑が立っております。さて伝教大師は源四郎に唐より持ち帰られました「不消の火」をも分与せられましたので、源四郎の家には「岩井の水」と「不消の火」が家宝になっております。その後源四郎の家は家運隆昌、子孫繁栄、四十幾代の今日まで血統の絶える事なく、地方の旧家として我が国でも珍しき千年運続する家系となったのであります。この家がかく引き続いて富み栄え子孫が断絶する事なく経過して来た事は、祖先源四郎以来常に質素を旨とし、陰徳を積む事を心掛け決して名利射幸を迫う事をしない。名主と庄屋とか、今日の村長、村会議員などの名誉職などは絶対にお断りをしていて、しかも村のため地域のための寄付金や慈善事業には、村人の予定額の二倍を提出するを常とし、その寄付行為に自分の名前を出さず、表彰なとを喜ばぬ真の陰徳の行為をなして来たもので、これらの善根功徳は知らず知らず余栄となって家運隆盛、幸福な生活を続け得る事となったのであります。私はこの千年の家系を持つ珍らしき家を明治二十年頃一度訪問した事がありますが、その後お墓が家運の消長、子孫相続の大本となる事を研究調査してから、もう一度その家を訪問して墓相を見たいと考えておりましたが機会が無く今日に至りましたが、今春博多へ旅行したついでにぜひその家を訪問せんと大雨を冒して自動車でその家へ行きました。しかるにその家は以前と変わりはないが家運衰えて凋落悲惨を極めているのに驚きました。五十年前の主人は現代の祖父に当たり、その人の死亡と共にその長子たる○○氏が父の石碑を巨大なる自然石にて造り、山麓に豪華なる墓地を開き、もって父に対する孝養の一端としたものです。するとその時までなんらの異変もなく家運の繁栄を継続し得たものが、いつとはなく衰運に向かい、山地田畑は次第次第に人手に渡り、挽回の策はことごとく失敗に終わって益々損失を加え、遂に不幸の内に死亡するに至ったのであります。私はこの自然石の石碑を見て全部調査し得、現代の相続者のお気の毒なる境遇に同情して帰りました。聞く所によると現代の某氏は史跡名勝たる「岩井の水」の絵葉書などを来訪者に売って生計の資にされているかとかで「不消の火」も何だか以前のとは異なっている様ように思われました。
 自然石の碑が墓相上甚だよろしからぬ事は、一々例を挙げるまでもなく皆さんが墓地に行かれてその所にある自然石の碑とその家とを調査せられましたならば思い半ばにすくるものがあると信じます。しかし墓そのものがいかに吉相でありましても、その人の日々の行為が不浄不徳なるにおいては、幸福なる家庭、一家の繁栄は望まれないのであります。皆々日常功徳を積み善隈を培っている事が肝要であります。     終  り


先祖の祭祀と家庭運」 松崎整道先生講話 お墓の話 より 

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 墓相Wiki 最終更新時間:2011年10月28日 09時33分22秒